地磁気逆転と「チバニアン」 
菅沼悠介[著] 講談社ブルーバックス 2020年発行 1100円 + 税



 1ヶ月ほど前、横浜駅西口の有隣堂で購入した。
 この3年ほど、千葉県養老渓谷の露頭が「GSSP(国際境界模式層断面とポイント)」になるのではないかと言われて来たが、今年の1月正式に認められた。私も長年放射年代測定に携わって来て、堆積層に含まれる火山灰層中から測定可能な鉱物を選んで年代測定を行った経験もあるので、関心を持ってニュースを追っていた。といっても、私の主たる関心は火山岩、火成岩であったから、堆積岩が主体となる地層区分にはそれほど関心はなかったというのもたしかである。火成岩の年代は化石で決めることは出来ず、放射年代で決めることになるから、地質年代のは円が遠いのである。(放射年代を求めてから地質年代に読み替えるなど意味がないと思っている。)「チバニアン」が正式に認められたので、申請が認められるまでの経緯を読んでおくのもいいだろうといった、気楽な気持ちで購入した。
 「地磁気逆転と『チバニアン』」という題名であるが、これは、「チバニアン」は松山逆磁極期からブルン正磁極期への転換の時点から始まるということなので、地磁気逆転の説明が必要なのは当然である。私は、チバニアンの申請にはこの逆転の年代をきちんと決めればよいものと思っていた。もちろんそのためには露頭で地磁気の逆転が押さえられなければならない。養老渓谷の地層は堆積が速く、逆転の細部まで調べることが出来た程度に思っていた。そうだとすれば、地磁気逆転に少しウエイトが行き過ぎているのではないか。しかし、考えてみれば、地磁気の逆転など、地球科学を学んだものにとっては基礎知識であろうが、一般の読者にはそうではないはずだから、この説明は必要であろう。ただ、どこから解説を始めてどこまで解説するかは悩ましい。この種の本を読もうとする人はそれなりの興味をもっていて、ある程度の知識も持っていると考えて、取捨選択するしかないだろう。私の専門とかなり重なる分野であるから私には気楽な読み物であったけれど、一般の読者にはかなりバリアーは高いのではないか、一般読者が期待したのは、新聞でも報じられた研究者間の諍いの詳細だったのかもしれないとも思った。
 いつものように目次から紹介しよう。
     第1章 磁石が指す先には −−− 磁石と地磁気の発見
     第2章 地磁気の起源 --- なぜ地球に磁場が存在するのか
     第3章 地磁気逆転の発見 --- 世界の常識を覆した学説
     第4章 変動する地磁気 --- 逆転の全長はつかめるか
     第5章 宇宙からの手紙 --- それが、謎を解くヒントだった
     第6章 地磁気逆転の謎は解けるのか --- なぜ起きるのか、次はいつか
     第7章 地磁気逆転とチバニアン --- その地層が、地球史に名を刻むまで
 第1章から第6章まではチバニアンの真正に必要な研究の説明だが、著者の専門である地磁気の研究に関するものが大半で、かなり初歩的なことから説明されている。80%くらいは基礎知識として持っていたが、いくつか新たにえた知識もあった。地磁気の分布が原因で人工衛星が故障しやすい空域があるとか、ヨーロッパコマドリは文字通り地磁気を”見て”いるらしいとか、ネアンデルタール人の絶滅に地磁気の逆転が関係している可能性があるとか。地磁気を研究した歴史的科学者の簡単な紹介も「ああ、そんなことだったっけ」と、再確認できて楽しかった。また、歴史的科学者とは言わない、私の先生世代(川井直人、永田武、上田誠也など)、先輩・同輩・後輩(浜野洋三、新妻信明、綱川秀夫など)、教え子(星博幸、仙田量子)の名前がでてくるのも楽しかった。
 私にとっての主眼は第7章。(ひょっとすると著者にとってはつけたしなのかもしれないと思わせるほど、1章から6章までのウエイトが重い)。著者による簡略なまとめによるとGSSPとして満たすべき基準は
海底で堆積した地層が現在は地上に露出していて、断層による変形や岩石の変質などが著しくなく、化石や地磁気逆転などの痕跡が保存され、年代がはっきり分ること
ということになります。「チバニアン」を提唱している前期−中期更新世境界に関する特殊条件としては、
    松山−ブルン境界が記録されていること
    松山ーブルン境界を挟んで、氷期ー間氷期ー氷期と連続的な気候変動が詳しく記録されていること
が加えられる。
 養老渓谷の地層はこれら全ての条件を満たしていた。しかし、解決しなければならない問題はまだあった。地磁気逆転を記録した地層の年代を求めた時、その年代が地磁気が逆転した時を表すのか、少し遅れて堆積残留磁化が固定した年代を表すのか議論が分かれていたのです。最も頼りになる年代は、逆転の層準の少し下にある白尾火山灰層の年代で、この年代はこの層からえられたジルコンを用いて放射年代測定で精度よく決定された。地磁気逆転に際しては地磁気強度が弱まり、地表に達する宇宙線強度が強くなる。すると10Beという宇宙線生成核種が多く作られる。10Beは速やかに堆積層に含まれるので、地磁気逆転の時点からの遅れはない。養老渓谷の試料では地磁気逆転と10Beの濃集の両方が観察でき、この間に約1万年の差があることが明らかになった。白尾火山灰層の精度の良い年代測定、地磁気逆転の詳細な記録、10Beの記録、これらが相俟って養老渓谷試料の信頼性を高め、ついに「チバニアン」の名称が認められるようになったのです。
 残留磁気の測定に関してはよく分かりませんが、放射年代測定や、極微量分析の技術の進歩は著い。(ハヤブサが持ち帰った埃のような試料が分析できる!)私がK-Ar年代測定を始めた頃はグラムオーダーの試料を使い、100万年程度の試料だと誤差が10%つくこともまれではなかった。えられた年代の信頼性の検討が出来るAr-Ar年代法の海底岩石年代測定への適用が私の博士課程での仕事でした。
 当時、松山−ブルン境界の年代は69万年と報告されていました。K−Ar法では年代が若くでる傾向があるので、もう少し古いのかなと漠然と思っていました。そこへミランコヴィッチサイクルを用いた年代推定で境界年代は79万年という衝撃的な報告がでました。ミランコヴィッチ年代も、最初の頃は遠慮がちに「K-Ar年代とあうから信頼性がある」といった議論をしていたのですが、データが溜まってくるとK-Ar年代との食い違いが無視できなくなったようです。堆積層の乱れで10万年サイクルが一つ見落とされていたということで、69万年より10万年古い79万年という年代が報告されました。放射年代研究者もAr-Ar法で精密測定(当時として)を行い、75万年とか77万年とかいう年代が報告されました。その当時は100万年を切ったあたりの年代をある程度精度よく測定できるのはK-Ar(Ar-Ar)法しかなかったのです。
 堆積残留磁化の研究をしていた先輩の手伝いで蔵王に火山灰を採りにいったこと、素粒子物理の研究に対しては性能不足になって来た直線加速器を年代測定に使うようになった経緯、地質年代を決めるために堆積層中の火山灰から双眼顕微鏡の下で根気よく鉱物を選別したこと、そんなこと、あんなことを思い出しながら感慨深く読みました。
   


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