峰町の不思議


  円海山から鎌倉までのハイキングコースは、手頃な散歩道である。家から歩けば、1時間弱で円海山のハイキングスタート地点に着くが、最近は「敬老パス」を利用して「峰の郷」までバスを使うことが多くなった。
 杉田駅前からバスに乗ると、浜中学校までが上り坂、栗木まで下って、また上り坂になり、萩台のトンネルの南の道を磯子カントリークラブの入口まで登る。そこからまた下り坂で、洋光台の南側の谷をゆっくり登り、峰のバス停から、峰の郷まではまた結構な上り坂である。
 カントリークラブ入口から下った谷には川が流れている。しかし川の出口がないのだ。峰の郷行きのバスに乗った場合、右手は洋光台団地の外れで道より10m程度高い。左の方は少し広がっているようであるが、その先にはゴルフ場があり、川が流れ下るようなところはない。現在、峰の谷は大きな窪地になっている。
 この道は中学生の頃自転車で走ったり、高校生の頃土筆を摘みに来たり、何度も通っているはずなのだが、川がどう流れていたかは記憶にない。昔から窪地であったとは考えられず、洋光台団地造成のとき川が暗渠となり、窪地が出現したのだろう。そうは推測がつくのだが、一体どのような地形だったのか興味が出て来た。
 国土地理院の「ウォッちず」からコピーした峰付近の地図に標高50mの等高線を赤で示した。囲われた中が50m以下で、カントリークラブから下り切った最低高度は43mを少し切る程度である。もし昔からこんな地形なら、水がたまって大きな池になっていたはずであるが、そんなことはなかった。峰の谷を流れる川は釜利谷街道の三井住宅入口の少し上大岡よりで大岡川(笹下川)に合流する左右手川である。現在は洋光台団地の中を暗渠で流れている。洋光台団地が出来る前は岡の間を流れていたはずである。
 昔の地形は、昔の地図があれば分る。写真があればなお結構だが、地図で十分だろう。web検索をかけたところ、横浜市が市内の昭和初期の地図と、昭和30年代の地図を3000分の1のスケールで公開していることが分った。まず昭和初期の地図を探してみると・・・この辺りの地図はない。杉田から金沢にかけて海軍の施設があった関係で地図は作られなかったようだ。それではと、昭和30年代の地図を探す。窪地にあたる部分は「谷津坂」の図幅の左上に納まっている。回りとの関連を見るためには「杉田」と「円海山」もあった方がよいだろう。見れば一目瞭然である。左右手川はカントリークラブの建物のある岡の西を横切って北の方へ流れている。谷の深さは20ないし30mもある。当時の30m、40m、50mの等高線のおおよその様子を青線で書き加えた。興味のある方はwebで原図を見てください。
 2011年の東北日本大震災のとき、仙台の団地は大きな被害を受けたが、同じ団地内でも被害の程度は場所場所で大きく変わった。山を削り取ったところでは被害は少なく、谷を埋めたところで被害が大きかった。現在工事が進んでいるリニア新幹線でも長大トンネルから堀だされる岩石の捨て場が問題になっているように、大規模な土木事業では残土の処理が大きな問題になる。洋光台団地は1971年には完成している(根岸線が洋光台まで営業開始)が、根岸湾の埋め立て終了も1971年で、残土の一部は埋め立てに使われたと思われる。しかし、団地形成では山を削り、谷を埋めるという作業が当然伴う。カントリークラブ西側の谷は20mないし30mの厚さで覆われたことになる。萩台のトンネルの西側出口の先を北に向かう道は洋光台第2小学校の東に至る。この道は地形の低いところを通っている。これが以前の左右手川の流路であろう。この辺りでも少なくとも10m程度の盛り土はありそうである。第2小学校付近から地形の低い部分は今までの道をそれ右側に分かれる道に沿って北に進み、根岸線にぶつかる。根岸線を越した先で明らかな谷の地形になり、少し下った先で暗渠から出てくる。
 いつも歩いている、あるいはバスに乗っている洋光台だが、新たな町を見るような気になった。(20190214)



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