姨捨 --- よもすがら月を見る


 令和5年12月の宝生会月浪能特別会は「鉢の木(黒頭)」、「姨捨」、「乱(和合)」の能3番に狂言「寝音曲」。能3番はいずれも初めて見る演目。
 正面中央前から7列目。まさにまん真ん中の席。こんないい席で見れるなんて、幸せ以外のなにものでもない。
 今回の中心は「姨捨」だが「鉢の木」もなかなか重い曲。ただ筋はわかりやすいから誰でも楽しめるのではなかろうか。雪を被った鉢の木が面白かった。生木を切って燃やそうとしてもなかなか燃えないだろうになどと余計なことを考える。まあ、よく燃えれば鉢の木などあっという間に燃え尽きてしまって、暖を取ることもできないかもしれない。たいして暖かくもならないだろう鉢の木の燃焼温度は、佐野源左衛門の温かい心に補われていたのだろう。
 鎌倉へ帰った西明寺入道が関八州の武士を招集する。ちぎれた腹巻、錆びた長刀を持った源左衛門も痩せ馬に乗って駆けつける。映画なら、騎馬武者が集まるスペクタクルな場面だが、能では間狂言のセリフで情景が述べられる。舞台の上には、西明寺入道と、太刀持ちの侍、それに源左衛門だけ。いかにも能らしい表現だと思いながら、でも、武者を5名くらい配置するのも面白いかもしれないと思った。

 「姨捨」は信州姨捨の山中で旅人が、昔この山に捨てられたという老女の霊に遭い、よもすがら月光の下で踊る老女の舞を見るという話。老女は捨てられら恨みを語ることもなく、月を愛で、自然を愛でひたすら舞う。謡の言葉では白衣を着ていると述べられているが、実際の舞台では、薄山吹色といった色(上の写真よりずっと黄色がかっていた)で、月の光で白衣があの色のなることはなさそうな色だ。私には、老女の舞をみていたのがいつの間にか月の動きそのものを見ているような気になった。旅人も、老女のことは忘れて月に見入っていたのではないだろうか。大変詩的(Poetic)な舞台だった(写真は会場で配られた解説に載っていたものを借用した)。

 学生の頃「五雲会」で小書なしの「猩々」を見た。「乱」は横浜に帰ってきてから12月の月並会で見たのだと思う。今回は「和合」の小書付きの上演。二人猩々である。猩々が2人(2匹?)出てくるのだから、その動作が完全にシンクロするはずはないのだけれど、演劇になればそこをシンクロさせるところにどうしても目がゆく。わざとずらせているところもあるが、もっとシンクロしていいところでずれるところが、面白いというか、歯痒いというか。今年の月並み能を締める華麗な演目だった。(20231211)

   




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