令和6年、穏やかな元日だと思っていた。今年もまた円海山まで富士山の写真を撮りに出かけた。意外と暖かく、日差しも明るい。円海山手前の、磯子区と港南区の境の尾根から、富士から秩父・奥武蔵の山々までがきれいにみえた。富士山以外に雪はない。赤城山、奥日光の山々、男体山などの関東北山は残念ながら見えなかった。 午後3時過ぎ、メールアドレスしか知らない友人に年賀メールを送ることにする。送り終わっても少しの間コンピュータの前に座っていた。何か揺れている感じ。気のせいかと思うほどわずかな揺れ。「遠地地震の表面波かな。」カーテンの紐もわずかに揺れているようだ。「遠地地震とすればかなり大きいかも。」コンピュータの時刻表示は16時13分だった。気象庁のホームページを開いてみる。16時6分、震源;能登半島北部、最大深度;5強の表示。表面波だとしても、能登半島から横浜までは時間がかかりすぎている、やはり気のせいか、と思ってコンピュータをシャットダウンした。 午後6時になったので、Cool Japan をみようとTVをつける。Cool Japanはやっていない。「えーっ!あの地震そんなに大きかったの?」この時点ではまだ16時6分の後の16時10分にもっと大きな地震が襲ったことには気づいていなかった。私が16時13分に気象庁のHPを見た時は、16時10分の地震の情報はまだアップされていなかったのだ。年明け早々大変な年になったものだと思わずため息。 大地震が起こるたびに思い出すのが、唱歌「1月1日」の替え歌。こういうくだらないことを教えてくれるのは決まって母なのだが、私が覚えている歌詞は
ネットで調べると歌詞は色々のバリエーションがあるようだ。「年の初めのためしとて」は元歌と変化がないが、この部分は「豆腐は初めは豆である」といった歌詞が多いようである。ただこの場合は歌詞全体の意味はわからなくなる。 この歌詞と結びついて必ず思い出されるのが「末期の水を汲み置きにける」という、短歌の下の句。なぜか「地震になれば水の確保は一大事。大切な水は確保しておかなければ。大切な水といえば末期の水も大事だよな。」などと思っていた。 今回の能登半島地震。まさに「年の初めの大地震」、当然上の替え歌を思い出した。そこで「あれ、待てよ、名古屋で年の初めに地震が起こったことがあっただろうか?」どうも無いようである。1945年1月13日の三河地震が唯一1月に起こった地震だが、松の内は明けているし、第二次大戦中であるから報道すらされなかったのではなかろうか。替え歌が作られるような状況でないし、私は母が子供の頃に歌ったものだと思っているから、三河地震ということはありえない。名古屋の大地震といえばまず思い浮かぶのが1891年10月28日の「濃尾地震」。ネットでも「濃尾地震」の後に作られたとしてあった。となると「門松」は関係なさそう。「松竹」としたところには別の意味がありそう。元々は大人が作った替え歌で、子供が歌うような内容ではないといった解説もあった。ただ明治大正の子供たちが大声でこの歌を歌いながら凧揚げに向かうなどということはあったらしい。あくまでも地震と結びついた替え歌と考えるならば、私が覚えている歌詞は、一応意味も通るように思う。 もっと合点がゆかないのは「末期の水を汲み置きにけり」がなぜ地震に結びついて記憶されているかである。この短歌(狂歌?)の出どころは、落語「かつぎ屋」。枕が終わったところで次のように始まる。
|